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WBCネトフリ独占中継!地上波に世界のスポーツ必要なし!?

TV番組
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誰に向けて作ってるのか

地上波スポーツ中継の行方 ―テレビの存在価値は

「地上波のスポーツ番組は不要なのか?」――そんな声が現実味を帯びてきた。


2026年に開催されるワールド・ベースボール・クラシック(WBC)はNetflixによる独占配信が決定し、従来のように地上波での生中継は行われない。

日本代表が熱戦を繰り広げ、多くの国民がテレビの前に集結したあの光景は、もう見られないのかもしれない。

筆者自身、正直に言えばWBCに特段の関心はない。

しかし、注目すべきは「関心の有無」ではなく、こうした世界的スポーツイベントが地上波から姿を消しつつあるという事実だ。

しかも、これはWBCにとどまらない。オリンピック、サッカーワールドカップなど、かつては「国民的行事」としてテレビの視聴率を牽引してきた大会も、今後は配信プラットフォームが主戦場となる可能性が高い。

地上波は本当に不要なのか。

あるいは、まだ果たすべき役割が残されているのか。ここで改めて考える必要がある。

■ ネット独占放送の必然性と功罪

NetflixやABEMAといった配信サービスがスポーツ中継を担う流れは、世界的には既に主流だ。

米国ではAmazonがNFLの独占放送権を取得し、イギリスでもプレミアリーグの一部が配信プラットフォームへ移行した。

ユーザーは有料課金を通じて試合を視聴する一方、企業は放映権料によって巨額の収益を確保する。

スポーツビジネスの持続性を考えれば、合理的な流れである。

しかし、ここには功罪がある。


メリットは「見たい人が確実にアクセスできる」こと。配信サービスに契約さえすれば、場所や時間を選ばず、スマートフォンでもタブレットでも視聴可能だ。

スポーツ観戦の自由度は飛躍的に高まった。

一方で、最大のデメリットは「偶発的な接触」が消えることだ。地上波は無料放送であり、スポーツに興味のない人でもチャンネルを回しているうちに偶然試合を目にすることができた。

そこから新しいファンが生まれる。地上波が持つ最大の力は、この“偶然の出会い”だった。

しかし有料配信に限定されれば、熱心なファンだけが囲い込まれ、ライト層が取り残されるリスクがある。

スポーツは「熱狂の共有」が魅力であり、それを社会全体に拡散する役割を担ってきたのが地上波だった。

これが消えれば、スポーツの文化的基盤そのものが揺らぎかねない。

■ 地上波は無用の長物なのか

では、地上波はすでに不要なのだろうか。確かに現状の地上波には限界が見える。

バラエティ番組の低俗化、スポンサー依存による編成の硬直化、そしてインターネットとの競争に遅れをとった戦略。

結果として若年層のテレビ離れは加速し、「無用の長物」と揶揄されても仕方がない面はある。

だが、それでも地上波にはまだ「公共的メディア」としての責務がある。


第一に、災害報道だ。地震や豪雨の際、瞬時に広範囲へ情報を届けられるのは依然として地上波である。

ネット配信は通信環境に左右されるが、テレビ電波は停電時にもバッテリー駆動で受信できる。

命を守るインフラとしての価値は揺るがない。

第二に、スポーツや文化を「社会的イベント」に仕立て上げる力だ。

例えば高校野球。夏の甲子園は、野球ファンのみならず幅広い層が視聴し、全国の学校や選手に注目が集まる。その求心力を持つのは地上波の影響力にほかならない。

もし地上波がスポーツから完全撤退すれば、世代や地域を超えて同じ感動を共有する場が失われるだろう。

多様性の時代にあっても、「共通体験」を持つことは社会の連帯を強める重要な要素である。

■ 地上波が模索すべき新たな方向性

とはいえ、「ただ昔のように中継を続ければいい」という話ではない。

地上波は変革を迫られている。これからの方向性として、以下の三点を提案したい。

1. 専門性と教養を重視する番組制作
単なる娯楽ではなく、国際情勢、経済、言語教育といった「未来の世代に資する」コンテンツを強化すべきだ。

スポーツを放送するにしても、プレーの裏側にある歴史や文化、科学的分析を交えたドキュメンタリー性を加えることで、単なる試合中継以上の価値を提供できる。

2. インバウンドを意識した多言語対応
日本を訪れる外国人観光客は増加傾向にある。地上波が多言語字幕や英語解説を積極的に導入すれば、日本文化の発信拠点となり得る。

スポーツ中継も英語や中国語の音声切替を導入すれば、世界への開かれたメディアとなる。

3. ネットとの共存戦略
配信サービスに完全に対抗するのではなく、むしろ補完関係を築くことが重要だ。

例えば、地上波でダイジェストやストーリーを放送し、フルマッチは配信で見るという「二段構え」が考えられる。

偶然の出会いを提供するのは地上波、深掘りを担うのは配信、と役割分担を明確にするべきだ。

■ 結論 ― 地上波の未来を切り拓けるか

地上波テレビは「オワコン」なのか。確かに現状だけを見ればそう映るかもしれない。

しかし、地上波が持つ公共性や社会的影響力を完全に否定することはできない。

むしろ、いまこそ地上波は存在意義を問い直し、スポーツ中継を含む番組作りの在り方を再構築する時期に来ている。

WBC2026が地上波で放送されないという事実は、単なる放映権の問題ではなく、日本のメディア構造そのものを映し出している。

地上波がこのまま“無用ノ介”に成り下がるのか、それとも社会に必要な情報と感動を届けるメディアとして生まれ変わるのか。

答えは、放送局自身の覚悟と改革、そして視聴者が何を求めるかにかかっている。

少なくとも、未来に「共通の記憶」を残すためには、地上波の灯を簡単に消してしまうべきではないかもしれないし、役目を終えたのかもしれない。