少年チャンピオン42+43号は刃牙祭り!
『グラップラー刃牙』から始まり、『バキ』『範馬刃牙』『刃牙道』『バキ道』、そして現在の『刃牙らへん』へ。
長きにわたって格闘漫画の最前線を走り続けてきた刃牙シリーズが、35周年という大きな節目を迎えた。
何と35年ですよ、35年。
生まれたばかりの赤ん坊が、立派な大人になる時間です。
その間、範馬刃牙たちは戦い続け、読者はその戦いを見届けてきた。
しかも、強敵を倒したと思ったら、すぐに次の強敵が現れる。どれだけ強い相手を倒しても、さらに上がいる。
「もう頂上でしょう」と思ったら、まだ山がある。しかも、その山が普通の山じゃない。
地下闘技場みたいな山です。
板垣恵介先生は、格闘漫画というジャンルの可能性を何度も押し広げてきた。
そんな35周年を祝うかのように、週刊少年チャンピオン42+43号は、まさに刃牙祭りと呼ぶにふさわしい誌面となった。
何がすごいのか。
板垣恵介先生による『刃牙らへん』の本編とインタビューを除けば、掲載作品のほとんどがスピンオフ作品なのである。
原案を板垣先生が手がけながら、漫画を担当するのは、それぞれ異なる作家陣。
刃牙という一つの作品世界を、複数の漫画家がそれぞれの視点から描いていく。
しかしッッこれが面白い。
刃牙シリーズの魅力は、主人公の範馬刃牙だけで完結しないところにある。
花山薫、愚地独歩、柴千春といった、独自の魅力を持つキャラクターたち。
彼らは単なる脇役ではない。それぞれに信念があり、戦い方があり、譲れない生き方がある。
とりわけ花山薫は、その圧倒的な存在感から、主人公に負けない人気を誇るキャラクターだ。
鍛え上げた筋肉や技術だけで強さを語るのではなく、素手で勝負することにこだわる姿勢、そして任侠の世界に生きる男としての美学。その生きざまが、多くの読者を引きつけてきた。
「強くなるために鍛える」という格闘漫画の基本に対して、花山は「鍛えないで強い」という、だいぶ反則気味の存在です。
いや、反則じゃない。花山だから成立している。
一方、愚地独歩には武道家として積み重ねてきた歴史があり、柴千春には柴千春にしかない根性と意地がある。
こうしたキャラクターを主役に据えたスピンオフが成立する。
それ自体が、刃牙シリーズの世界観がいかに豊かであるかを物語っている。
さらに、今では本編で姿を見る機会が限られる烈海王や天内悠まで登場する。
おお、懐かしい!
特に天内悠は、範馬勇次郎が東京ドーム地下闘技場の最大トーナメントに送り込んだ実力者だった。
しかし、その結末は衝撃的だった。
勇次郎の圧倒的な力を前に、天内は再起不能ともいえる扱いを受け、トーナメントから退場することになる。
あれだけの実力者を連れてきておいて、あの終わり方ですからね。
「この選手、どういう評価で連れてきたんですか?」と聞きたくなる。勇次郎にとっては、選手の評価も気分次第なのか。いや、気分次第でしょうね。地上最強の生物、採用基準が地上最強ですから。
こうした過去の登場人物に再びスポットライトが当たるのも、長寿シリーズならではの楽しみである。
本編だけを追いかけていると、どうしても現在の戦いに目が向く。しかし、過去のキャラクターたちが別の物語で動き出すことで、読者は作品世界を違った角度から楽しめる。
35周年という記念号にふさわしい、ファンへのサービスといえるだろう。
35周年記念号に見える週刊漫画誌の戦略
もちろん、編集者の視点から考えれば、今回のような特集には、ファンへの感謝だけではない意味もあるはずだ。
人気作品の周年企画は、長年の読者に改めて作品の魅力を届ける機会になる。
同時に、普段は本編だけを読んでいる人にスピンオフ作品を知ってもらい、雑誌のほかの連載にも目を向けてもらうきっかけになる。
例えば、花山薫が好きで刃牙を読んでいる人が、花山を主役にしたスピンオフをきっかけに別の作品にも興味を持つかもしれない。
あるいは、久しぶりに週刊少年チャンピオンを手に取った読者が、ほかの連載作品の面白さに気づくこともあるだろう。
こうした相乗効果は、漫画雑誌にとって重要な意味を持つ。
ただし、今回の企画にどのような販売上の狙いがあったのか、編集部の具体的な意図や売上への効果については、公開された情報を確認しない限り断定できない。
それでも、人気作品の周年企画が、作品単体だけでなく雑誌全体に関心を広げる機会になることは、十分に理解できる。
そして、ここに一人、まんまと……いや、喜んでその企画に乗せられた読者がいる。
私である。
そもそも、刃牙シリーズが掲載されていると、つい週刊少年チャンピオンを買ってしまう。
今回だけではない。30周年のときも、刃牙の特集が掲載された号を購入していた。
35周年でも購入。
結局、何周年になっても買っている。
編集部からすれば、実にありがたい読者だろう。
「周年のたびに買ってくれる人がいるぞ」
「じゃあ次は40周年で」
「買います」
「早いな!」
しかし、こちらにも言い分はある。35年間も楽しませてもらっている作品なのだから、記念号くらい買わせてほしいのである。
……と言いつつ、記念号以外でも買っているのだから、もう言い逃れはできない。
読み続ける大長寿漫画三傑
私が長年読み続けている漫画を振り返ると、特に思い入れの深い作品が三つある。
それが、『刃牙』シリーズ、『キン肉マン』、そして『ゴルゴ13』だ。
三作品とも長い歴史を持ちながら、それぞれ違った魅力で読者を引きつけてきた。
『キン肉マン』は、超人たちの戦いを通じて友情や正義、敗者の意地を描く作品だ。
かつての敵が仲間になり、過去の戦いが新たな意味を持つ。読者の記憶に残るキャラクターたちが、何年も経ってから再び活躍することもある。
『ゴルゴ13』は、デューク東郷という一人の超A級スナイパーを軸に、国際情勢や政治、経済、犯罪など、現実社会と接続した物語を描き続けている。
そして『刃牙』は、格闘技という題材を通じて、人間の肉体と精神の限界、強さへの執着、親子の確執、そして生物としての本能にまで踏み込んでいく。
三作品とも、方向性は違います。
友情・努力・勝利。
超A級スナイパー。
そして、親子喧嘩。
並べると、だいぶ会議室の議題が違います。
もちろん、三作品の作風は異なる。
しかし、長く読み続けられる漫画には、共通点があるように思う。
それは、単に物語が長いということではない。
キャラクターが読者の記憶に残り、その人物が次に何をするのかを見届けたいと思わせる力があること。
そして、作品の歴史が積み重なるほど、過去のエピソードや登場人物が新たな意味を持ち始めることだ。
刃牙シリーズも、まさにその一つである。
初めて読んだころには、ただ強い男たちが戦う漫画だと思っていたかもしれない。
しかし、長年読み続けていると、かつての戦いが現在のキャラクターを理解するための重要な手がかりになっていることに気づく。
「あのときの花山は、こうだったな」
「あの試合で、あの技が初めて登場したんだよな」
「この人物、昔はこんな扱いだったのか」
作品を読み続けることは、キャラクターの歴史を一緒に歩くことでもある。
そして、読者自身にも歴史が積み重なっていく。
私にとっての刃牙は、そういう存在になっている。
刃牙との出会いは最大トーナメント編
では、私が刃牙シリーズを読み始めたのは、いつだったのか。
記憶をたどると、それは『グラップラー刃牙』の最大トーナメント編だった。
今となっては、ずいぶん昔の話である。できれば、あまり年月を計算したくないくらい昔だ。
当時、私は深夜のコンビニでアルバイトをしていた。
深夜2時を過ぎたころだっただろうか。
週刊少年チャンピオンや週刊ゴングなどの雑誌が店に届き、休憩時間にそれらを手に取って読み始めた。
それが、刃牙との出会いだったと思う。
コンビニの深夜勤務と漫画雑誌。
今振り返れば、なかなか味わい深い組み合わせである。
深夜2時、コンビニ、週刊誌、そして刃牙。
「休憩中に読むものとしては、ずいぶん血圧が上がるな」と思いますけどね。
ただし、当時の記憶はすべてが鮮明に残っているわけではない。何年何月号から読み始めたのか、最初に読んだ回がどの話だったのか、そこまで正確には覚えていない。
しかし、はっきりと記憶に残っている試合がある。
花山薫対愚地克巳。
この一戦だ。
マッハ突きと侠客立ちが刻んだ記憶
最大トーナメント編は、刃牙シリーズの歴史を語るうえで欠かせないエピソードである。
『グラップラー刃牙』では、さまざまな格闘家が集結し、最強の座をかけて戦う最大トーナメントが描かれた。
空手、柔術、プロレス、相撲など、多様な格闘技やバックボーンを持つ選手たちが一堂に会する。
読者にとっては、単に勝ち負けを追うだけではなく、それぞれの選手が持つ技術や信念を知る機会でもあった。
そして、花山薫と愚地克巳の対戦である。
花山は、鍛錬によって技術を磨くというよりも、圧倒的な握力と肉体、そして真正面から相手を受け止める姿勢で強さを示す男だ。
一方の克巳は、神心会空手を背負う空手家であり、技術を極限まで突き詰めようとする人物である。
この二人の対比が、まず面白い。
花山は、相手の攻撃を受けても簡単には退かない。
そこには、花山薫という人物が持つ独特の美学がある。
克巳は、空手家としての技術と可能性を追求する。
その先にあるのが、彼の代名詞ともいえるマッハ突きだ。
マッハ突きは、拳を高速で繰り出すという発想を、刃牙シリーズらしい極端な身体表現によって描いた技である。
現実の格闘技では、打撃の速度だけでなく、距離、タイミング、身体の連動、相手の反応など、さまざまな要素が重要になる。
漫画のマッハ突きは、そうした打撃の概念を極限まで誇張し、読者に強烈な印象を与える必殺技として描かれている。
そして、この試合で忘れられないのが、花山の生きざまだ。
花山薫を語るうえで欠かせない「侠客立ち(おとこだち)」という言葉。
花山の背中に刻まれた刺青を象徴する言葉であり、彼の任侠道や生き方と深く結びついている。
ただ強いだけではない。
どれほど不利な状況になっても、己の信念を曲げない。相手を圧倒することだけが目的ではなく、自分がどう戦うのか、どう生きるのかを大切にする。
花山というキャラクターが長年にわたって人気を保っている理由は、こうした信念の部分にもあるのだろう。
私は、この花山薫対愚地克巳の試合が、今も強く印象に残っている。
マッハ突きの衝撃。
花山の圧倒的な存在感。
そして、技術と信念がぶつかり合う構図。
刃牙シリーズの魅力が、凝縮された一戦だった。
「技術の克巳」と「受け止める花山」。
普通なら、どちらにも勝ち筋があるんですよ。
ところが刃牙では、勝ち筋の先にさらに筋肉がある。筋肉の先に信念がある。信念の先に、また筋肉がある。
もちろん、最大トーナメント編の魅力は、この試合だけではない。
ジャック・ハンマー、烈海王、渋川剛気、愚地独歩など、個性の異なる強者たちが次々と登場する。
それぞれの戦いに、それぞれの物語がある。
だからこそ、トーナメントという形式が生きたのだ。
一人の主人公だけを追いかけるのではなく、登場する選手たち全員に「この男の戦いも見たい」と思わせる。
後にスピンオフ作品が数多く生まれることを考えると、この時期に築かれたキャラクターの魅力は、シリーズ全体の財産だったといえる。
その後、作品は『グラップラー刃牙』から『バキ』へと進んでいく。
ここで描かれるのは、最大トーナメントとはまた異なる戦いの世界だ。
最凶死刑囚編では、世界各地から集まった死刑囚たちが東京に現れ、地下闘技場の戦士たちと激突する。
最大トーナメント編が、ルールのある大会で強者同士が頂点を競う物語だったとすれば、最凶死刑囚編では、試合場の外まで戦いが広がっていく。
武器、奇襲、罠、そして生き残るための発想。
「試合場の外でも戦う」という発想が出てくると、もう日常生活が全部リングになるんですよ。
「ここは安全だろう」と思ったら、そこが一番危ない。いや、どこなら安全なんですか。
そこでは、単純な格闘技の優劣だけでは測れない危険性が前面に出てくる。
当時の私は、そんな作風の変化に、少し違和感を覚えたものだった。
「何か、今までと違うな」と。
もっとも、これは作品の方向性が変わったことに対する、当時の個人的な感想である。
『バキ』では、その後も中国大擂台賽編や、ピクル編へと物語が展開していく。
格闘技の枠を超えた存在が現れ、戦いの舞台も価値観も大きく変化していった。
そして、『範馬刃牙』へ。
ここで再び、私は刃牙から目が離せなくなった。
物語の大きな軸となるのは、範馬刃牙と父・範馬勇次郎の関係だ。
勇次郎は、刃牙シリーズにおいて「地上最強の生物」と称される存在である。
その圧倒的な強さは、単に戦闘能力が高いというだけではない。周囲の人間の価値観を変え、社会の力関係にまで影響を及ぼすほどの存在として描かれている。
刃牙にとって、勇次郎は倒すべき父親であると同時に、超えるべき壁でもある。
親子でありながら、単なる親子愛や反抗期では片づけられない関係。
強さを求める息子と、圧倒的な強さを持つ父。その間には、長い時間をかけて積み重ねられた確執がある。
そして物語は、史上最強の親子喧嘩へと向かっていく。
長年、刃牙を読んできた読者にとって、これは大きな到達点だった。
これまで数々の強敵と戦い、経験を積み重ねてきた刃牙。その成長の先に、父との決着がある。
最大トーナメント編から読み続けてきた私にとっても、この展開は特別だった。
もちろん、勇次郎が簡単に倒せる相手ではないことは、読者なら誰もが知っている。
何しろ、地上最強の生物である。
「これ、どうやって勝つんだ?」という問題が、物語の最初から最後までついて回る。
しかも、強敵を倒しても、次の相手が現れる。
格闘漫画の主人公としては、ありがたいような、ありがたくないような環境である。
「強くなったぞ!」
「じゃあ次の相手です」
「休ませてください」
「刃牙ですから」
それでも、刃牙は戦い続ける。
そして、親子喧嘩というシリーズ最大級のテーマに向き合っていく。
私は、この『範馬刃牙』の展開によって、改めて作品の面白さに引き込まれたのだった。
板垣恵介先生の画力の変化
『範馬刃牙』のころになると、私がもう一つ強く感じていたことがある。
それは、板垣恵介先生の画力の変化だ。
もちろん、漫画家の画風が変化すること自体は珍しくない。
連載が長くなれば、人物の描き方や構図、線の使い方が変わっていくことはある。
しかし、刃牙シリーズを長く読んできた読者としては、その変化が非常に印象的だった。
特に、髪の毛の艶感や肉体の質感である。
人物の筋肉は、単に大きく描けば迫力が出るというものではない。
筋肉の盛り上がり、皮膚の張り、骨格の位置、陰影のつけ方など、細部の表現が組み合わさることで、独特の存在感が生まれる。
刃牙シリーズでは、登場人物の肉体そのものが、キャラクターの強さを表現する重要な要素になっている。
だからこそ、筋肉の描写が変わると、キャラクターの印象まで変わる。
さらに、髪の毛や顔の陰影なども含めて、画面全体の密度が変化していく。
私は、そうした変化を読みながら、「漫画の絵って、ここまで変わるんだな」と思ったものだった。
初期の作品と後年の作品を比べると、同じキャラクターでも印象が異なる場面がある。
ただし、それは単純に新しい絵のほうが優れているという話ではない。
それぞれの時期に、その時期ならではの表現がある。
初期の刃牙には初期の刃牙の魅力があり、後年の刃牙には後年の刃牙の魅力がある。
長期連載の面白さは、ストーリーだけでなく、作者自身の表現の変化を見届けられるところにもあるのだ。
そして、35周年を迎えた現在。
作品を読み続けてきた読者にとっては、キャラクターの歴史とともに、板垣先生の漫画家としての歩みもまた、一つの物語になっている。
東京ドームらへんでの刃牙展
気づけば、刃牙シリーズを読み続けてきた年月は、かなりのものになった。
『グラップラー刃牙』から『バキ』へ。そして『範馬刃牙』へ。
その後も『刃牙道』『バキ道』と読み進め、現在の『刃牙らへん』に至るまで、作品を追い続けている。
途中で読むのをやめることもなく、気づけば今に至る。
もちろん、漫画を読むだけでは終わらない。
東京ドーム近くで開催された刃牙の展示イベントにも足を運んだことがある。
平日だったにもかかわらず、会場では列に並んだ。
平日に並ぶ大人。
しかも、長年刃牙を読んできた大人。
冷静に考えると、なかなか味わい深い光景である。
「平日に何をしているんだ」と思われるかもしれませんが、こちらは刃牙を見に来ているんです。むしろ予定を空ける理由としては、かなり強い。
しかし、好きな作品の展示となれば話は別だ。
漫画の中で見てきたキャラクターや世界観を、展示という形で改めて体験できる機会は貴重である。
ページをめくって楽しむのとは違う角度から、作品の魅力に触れられる。
それまで読んできた物語を振り返りながら、改めて好きなキャラクターや印象に残る場面を思い出す。
長年のファンだからこそ、展示を見て感じることも多かったのだと思う。
こうした経験も含めて、私にとって刃牙シリーズは、単なる連載漫画ではなく、長い時間を一緒に過ごしてきた作品になっている。
刃牙を読むことは肉体への問い
もう一つ、刃牙シリーズを長く読んできたことで感じていることがある。
それは、格闘漫画を通じて、身体や健康に対する関心を持つようになったことだ。
刃牙シリーズには、筋肉や骨格、身体能力、持久力、瞬発力など、肉体に関する描写が数多く登場する。
もちろん、漫画の中で描かれる身体能力は、物語を成立させるために誇張されている部分も多い。
作中の技や現象を、そのまま現実のトレーニングや医学的な事実として受け取ることはできない。
「これを現実でやったらどうなるんだろう」と考える前に、まず病院の場所を確認したほうがいい。漫画は漫画として楽しむ。それが大人の判断です。
しかし、格闘漫画を読んでいると、自然と身体の仕組みや鍛え方に興味が湧いてくることがある。
私自身も、刃牙をはじめとする格闘系漫画を読んできたことが、身体への関心につながっているように感じる。
そして、年齢を重ねた現在も、体重が大きく増えることなく、健康診断の数値にも大きな異常がない状態で過ごせている。
もちろん、健康状態は食事や運動、睡眠、体質など、さまざまな要因によって左右される。
漫画を読んでいたことが、健康維持に直接つながったと証明できるわけではない。
それでも、身体への関心を持つきっかけの一つになったことは、私にとって意味のあることだった。
格闘漫画を楽しみながら、現実の自分の身体にも目を向ける。
作中の強者たちと同じ肉体を手に入れることはできなくても、自分の健康を維持するためにできることはある。
何より、刃牙たちのように強くなる必要はない。
こちらは地上最強を目指すより、健康診断で問題がない状態を維持するほうが大切なのだ。
勇次郎に「貴様、それでも男か」と言われても困る。
「はい、健康診断では問題ありません」と答えるしかない。
こちらは地下闘技場に出場する予定もないし、誰かと親子喧嘩をする予定もない。
平穏に健康で過ごせれば、それで十分なのである。
刃牙の強さの頂点に終わりなし
さて、35周年を迎えた刃牙シリーズについて、もう一つ触れておきたいことがある。
それは、長く続いたシリーズだからこそ生まれる、独特の難しさだ。
物語の序盤では、主人公が成長し、強敵に挑み、敗北を経験しながら強くなっていく過程そのものが大きな魅力になる。
ところが、主人公が強くなりすぎると、今度は別の問題が生まれる。
どうすれば読者に新鮮な驚きを与えられるのか。
どんな相手を登場させれば、これまでの強敵との差別化ができるのか。
そして、主人公の強さを維持したまま、物語に緊張感を持たせるにはどうすればいいのか。
刃牙シリーズは、まさにその課題と向き合い続けてきた作品でもある。
刃牙も勇次郎も、長年の戦いを通じて圧倒的な存在になった。
そうなると、読者の関心は、勝敗だけではなくなってくる。
どんな相手と戦うのか。
どのような技が登場するのか。
強者たちは、どんな理屈で自分の強さを説明するのか。
そして、これまでの常識をどう覆してくるのか。
刃牙シリーズは、そうした部分にも面白さが広がっている。
ただし、長年読んできた私としては、思うところもある。
かつては、主人公が強敵と対峙し、勝てるかどうか分からない緊張感があった。
しかし、主人公が強くなりすぎると、戦いそのものよりも、戦いが始まる前後のやり取りや、周囲の人間の反応に目が向くこともある。
場合によっては、目撃者の証言が中心になる。
「いや、本人の戦いをもっと見せてくれ」と思うこともある。
刃牙が強すぎるのも、なかなか大変だ。
相手が登場しても、どうすれば刃牙を苦戦させられるのかという問題が先に立つ。
かつてのように、勝敗が分からないからこそページをめくる、という楽しみ方とは違った面白さになっている。
しかし、ここで重要なのは、作品の魅力が失われたと簡単に結論づけることではない。
長期連載では、物語の中心が変化することがある。
成長物語から、強者たちの価値観を描く物語へ。
勝敗のドラマから、常識を超えた存在同士のやり取りへ。
読者が求める面白さも、長く読み続けるうちに変わっていく。
私自身も、昔と今では、刃牙シリーズの楽しみ方が違っているのかもしれない。
だからこそ、現在の展開に対してあれこれ思うところがあっても、読むのをやめる気にはならない。
むしろ、「今回は何を見せてくれるのだろう」と、次の展開を待ってしまう。
「またすごいことを始めたな」と言いながら読む。
「そこまでやるか」と言いながら読む。
「でも次も読む」となる。
これこそ、長年のファンの心理なのだろう。
刃牙シリーズを長く読んでいると、作品の中の出来事だけでなく、現実の時代の変化まで思い出すことがある。
政治の世界でも、年月が経てば首相が交代し、アメリカの大統領も変わる。
そうした現実の変化と、漫画を読んでいた当時の記憶が結びつくのだ。
「ああ、このころは、あの首相だったな」
そんなふうに思い出すことがある。
長く続く漫画は、読者自身の人生の記録とも重なっていく。
学生時代に読んでいた漫画を、大人になってから読み返す。
当時は気に留めなかった台詞が、今になって心に響く。
かつては単なる強敵だった人物が、今読むと別の魅力を持って見える。
作品は同じでも、読む側の年齢や経験が変われば、受け取り方も変わる。
刃牙シリーズは、私にとって、そうした変化を実感できる作品の一つだ。
ただし、作中の政治的な描写や特定の人物の登場については、実際の掲載時期や設定を確認したうえで語る必要がある。
すべての場面が現実の政治状況を直接反映していると決めつけることはできない。
それでも、現実の時代と漫画の記憶が重なっていく感覚は、長寿作品を読み続ける楽しみの一つである。
35周年のその先へ・・・刃牙は終わらない
35周年を迎えた刃牙シリーズ。
『グラップラー刃牙』の最大トーナメント編で読み始めた私も、気づけば長年の読者になっていた。
花山薫対愚地克巳の一戦に衝撃を受け、最凶死刑囚編の変化に戸惑い、『範馬刃牙』の親子喧嘩に再び夢中になった。
板垣先生の画力の変化を感じ、展示イベントにも足を運び、そして現在の『刃牙らへん』まで読み続けている。
振り返れば、実に長い道のりである。
『グラップラー刃牙』から『バキ』、『範馬刃牙』、『刃牙道』、『バキ道』、そして『刃牙らへん』。
タイトルだけでも、ずいぶん歩いてきた。
「道」が出てきたと思ったら、「らへん」に着いた。どこですか、らへんって。
いや、刃牙らへんです。シリーズ名です。
もちろん、これからの展開に望むことが何もないわけではない。
昔のキャラクターが再び活躍するところも見たいし、過去の戦いを思い出させてくれる場面も楽しみたい。
花山薫や愚地独歩たちが、どんな姿を見せてくれるのかも気になる。
烈海王や天内悠のように、過去に登場した人物たちにも、それぞれの物語がある。
長年続いてきた作品だからこそ、こうしたキャラクターたちの存在が大切なのだと思う。
ただ、今の私が一番望んでいるのは、もっと単純なことかもしれない。
これからも、刃牙たちがそこにいてくれればいい。
新しい強敵が登場してもいい。
これまでとは違う方向に物語が進んでもいい。
ときには、あまりの展開に「おいおい、そう来るか!」と突っ込みたくなることがあってもいい。
長年読んできた作品なのだから、こちらにも言いたいことはある。
しかし、文句を言いながらも、次の話を読んでしまう。
そして、気づけばまた次の掲載号を待っている。
「もう今回は驚かないぞ」と思っても、ちゃんと驚かされる。
「さすがにこれはないだろう」と思っても、だいたいある。
そういう付き合い方ができる漫画は、決して多くない。
刃牙シリーズは、私にとって、そんな作品なのである。
35周年という節目を迎えた今、改めて思う。
漫画を読み続けるということは、単に物語の続きを追いかけることではない。
作品とともに年月を重ね、かつての記憶を振り返り、新しい展開に驚き、時には首をかしげながら、それでも次のページをめくることなのだ。
そして、これから先も、週刊少年チャンピオンを手に取るたびに、きっと思うのだろう。
「さて、今回は何をやってくれるんだ?」
35周年のその先へ。
範馬刃牙、花山薫、愚地独歩、そして数々の強者たち。
これからも、彼らの戦いを見届けていきたい。
こちらも、まだまだ読む気満々である。
……ただし、現実の私は、地上最強を目指すつもりはない。
健康診断の数値を維持しながら、次の刃牙を楽しみに待つ。
それで十分だ。
刃牙シリーズ35周年、おめでとうございます。
そして、これからも読み続けていきますッッ!


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