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フジの企業CM自粛で気付く・・それでも民放って成り立つんだ。

経済・生活
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不祥事体質はもはやなおらない

テレビという媒体がかつて持っていた「信頼」や「公共性」は、令和の今、その輝きを失いつつあります。

中でも、長らく「お台場の顔」として君臨してきたフジテレビが象徴的な存在となっています。

連日のように報じられる不祥事、広告主の撤退、視聴率の低迷──もはや“テレビの王者”としての風格は見る影もありません。

CMがなくても成立する地上波──その不自然な持続性

まず最初に驚かされるのは、昨今のフジテレビが広告収入が明らかに減っているにもかかわらず、なおも通常通り放送を続けているという点です。

一時期、番組の合間にはACジャパンの公共広告ばかりが流れ、スポンサー企業の姿がパタリと消えた時期がありました。

これはかつてのフジテレビでは考えられない光景です。

通常、民放テレビ局の最大の収益源はCMです。

特に視聴率が高い時間帯は“ゴールデン”と呼ばれ、1本あたり数百万円単位で広告枠が売られます。

しかし、フジテレビに限らず、多くの民放が視聴率の低迷に直面する中、企業はコストパフォーマンスの悪化を理由にCM出稿を控えるようになっており、かつてはなかったような企業がいい時間帯でCMを流しているような気がします。

それでも放送を維持できているのは、親会社のフジ・メディア・ホールディングス全体の体力、そして過去の蓄積があるからでしょう。

また、内製のCM(グループ会社の宣伝など)や、制作費を極限まで抑えたバラエティ番組で、なんとか帳尻を合わせているのでしょう。

とはいえ、こうした「薄利の維持」は限界があるのも事実です。

それならば、いっそNHKのように“CMなし”のスタイルで、公共性を前面に押し出す新しいメディア形態を模索しても良いのではないでしょうか。

絶え間ない不祥事──報道機関としての倫理の崩壊

フジテレビを語る上で、昨年末からの“スキャンダルの連鎖”は無視できません。

アイドルの暴行に始まり、前会長や社長らのやりたい放題、男性アナウンサーの不正──そのどれもがメディアの信頼を根底から揺るがす出来事です。

衝撃的だったのが、報道番組に出演していた現役アナウンサーが、裏ではオンラインカジノに常習的に参加していたという事件です。

公の場でニュース原稿を読みながら、私生活では違法行為を繰り返していた。

その事実は、フジテレビという報道機関全体に対する信頼を大きく損なわせました。

問題は、こうした一連の事件に対し、局が形式的な謝罪と再発防止策の発表にとどまり、根本的な体質改善を行っていないように見える点です。

出演者にスキャンダルが発覚するたびに“降板”という表面的な対応が繰り返され、責任の所在は常に曖昧にされたままです。

情報を伝える側の“顔”であるアナウンサーが、社会の規範を自ら破る──そんな矛盾に対し、視聴者がアレルギー反応を示すのは当然のことです。

エリートアナウンサーと視聴者の乖離

テレビ局の“顔”ともいえるアナウンサーたちですが、視聴者との間に横たわる“意識のギャップ”もまた深刻です。

高学歴で、高収入と、そんなアナウンサーたちが、貧困や災害、社会不安に寄り添った発言をしても、その言葉には現実味が伴いません。

実際、フジテレビのアナウンサーたちが報道番組で、生活苦にあえぐ人々の現場をレポートする様子を見て、「彼らにそんな実感があるとは思えない」と感じた方も多いのではないでしょうか。

テレビが“共感”を演出することはあっても、“共感”そのものを持ち得ていない現状。

それは情報の質に直結します。いくら流暢に原稿を読み、整った表情でカメラを見据えても、視聴者の胸には響かない時代が来ているのです。

ある視聴者は言います。「もはやアナウンサーなど必要ない。ロボットやAIに原稿を読ませた方が公平だし、嘘もつかない」。これは極論に聞こえるかもしれませんが、それほどに“テレビ人”への信頼は地に落ちています。

地上波は“必要”なのか──令和の価値観とメディアの選択

「フジテレビは、なぜ地上波をまだ続けているのか?」

この問いは、今やテレビ局全体に投げかけられるべきものです。

若者層のテレビ離れが進み、メディア接触の中心はYouTubeやTikTok、あるいはNetflixなどの配信サービスへと移行しています。

テレビを「持っていない」家庭も、都市部を中心に増えています。

つまり、“テレビをつける”という行為自体が、すでに過去のものになりつつあるのです。

さらに言えば、テレビ局が作る情報番組やバラエティ番組は、その多くが「中高年向け」に最適化されており、若者にとっては“退屈で無関係な世界”に見えてしまう。

これはフジテレビに限った話ではなく、民放全体が抱える構造的な問題です。

それでもフジテレビが今後も地上波を維持するというならば、その存在意義を問い直す必要があります。“テレビにしかできないこと”とは何か。

単なる情報伝達ではなく、社会との「つながり」をどう築くかが問われています。

テレビマンは「エラい」のか──今こそ再考の時

かつてテレビマンは“文化の担い手”とされ、多くの尊敬を集めていました。

しかし現在、彼らは果たして「尊敬される存在」であり続けているでしょうか。

ニュースを読むだけのアナウンサー、芸能人頼みのバラエティ番組、視聴率だけを追いかけるディレクター──そのどれもが、“市民社会の代弁者”とは言い難い姿です。

むしろ、今の時代に本当に尊敬されるべきは、灼熱の中で黙々と農作物を育てる農家、地域の安全を守る消防団、町内の困りごとに奔走する町会長といった“生活者に近い存在”です。

メディアはそうした市井の人々の姿を掘り起こし、記録し、伝えることでこそ、初めて公共性を取り戻せるのではないでしょうか。

テレビマンが「自分たちが主役」と考える時代は、終わったのです。

芸能界との癒着構造──“一度売れたら即チヤホヤ”の悪循環

フジテレビを含むメディアが繰り返すもう一つの過ちは、“スターシステム”の弊害です。

一度注目された俳優やアイドルが、実力以上に祭り上げられ、結果的にスキャンダルや問題行動に繋がるケースが後を絶ちません。

違法ギャンブル、暴力事件、パワハラ、薬物──問題を起こす側にも非はありますが、それを咎めず、“売れているから”といって起用を続けるテレビ局の姿勢もまた大きな責任を問われるべきです。

“数字が取れるから”という理由で危うい人物を登用し、後に炎上。

視聴者の信頼は失われ、再び視聴率は落ちる──こうした悪循環を断ち切るためにも、今こそ倫理的な判断軸が必要なのです。

“謙虚な視聴”という選択

視聴者として、私たちにできることは何でしょうか。

それは、自分の“見る目”を持ち続けることです。

誰かが流している情報を鵜呑みにせず、自ら考え、選び、問い直す。

その姿勢こそが、これからのメディア社会には求められます。

そして同時に、私たち自身も「謙虚であること」を忘れてはいけません。

不祥事やスキャンダルを他人事として消費するのではなく、「自分自身にも起こり得ること」として捉える。メディアと社会を“対立軸”で捉えるのではなく、共に信頼を築くパートナーとして捉える。

それが、メディアが本来持っていた公共性を再生するための、第一歩になるのではないでしょうか。