“重さ”と“感動”のバランスとは
先日、スタジオジブリ作品『ゲド戦記』を地上波で鑑賞しました。
公開当時から賛否が分かれていた本作について、私自身も事前にある程度の批評には目を通していたため、「賛否両論の映画」という前提を持って視聴に臨みました。
しかし、実際に観終わった今、その“否”の方の意見にうなずかざるを得なかった、というのが正直な感想です。
まず、全体を通して強く感じたのは、「高揚感の欠如」です。
多くの物語作品において、物語がクライマックスに近づくにつれて観客の感情を引き上げ、終盤では何らかのカタルシスを提供することが期待されます。
それが感動であれ、驚きであれ、観る者の心を動かす瞬間こそが、映画という表現媒体の醍醐味です。
ところが本作では、その盛り上がりのポイントが曖昧で、物語が最終局面に突入しても、心が動かされる瞬間が訪れることはありませんでした。
特に気になったのが、「ユーモアの欠如」です。映画というものは、どれほど重厚なテーマを扱っていても、適度に笑いや軽妙さを取り入れることで、観客の感情に緩急をつけることができます。
ジブリ作品においても、たとえば『もののけ姫』のようなシリアスな世界観でも、時折差し込まれるユーモラスなシーンが作品の深みを支えていました。
ですが『ゲド戦記』においては、そのような“遊び”の要素が一切なく、終始硬質で、閉塞感すら覚えるほどです。
もちろん、ユーモアがないこと自体が作品の質を決定づけるわけではありません。
しかし、それが映画全体の重苦しさを強調し、観客との距離を生んでしまっているのは否めません。
また、ストーリー展開においても、やや説明不足に感じる点が散見されました。
キャラクターの動機や背景が十分に描かれておらず、感情移入しづらい部分が多々あります。
主人公アレンの心の闇や、ハイタカ(ゲド)との関係性、あるいは魔女クモの存在理由など、物語の根幹を成す重要な要素が曖昧なまま進行していく。
観る側としては「なぜこの展開になるのか」「この人物はなぜこの選択をしたのか」と疑問が残り続けます。
また、クモが太陽の光で焼けていく描写を見たとき、昨今の人気アニメ『鬼滅の刃』に登場する鬼たちが日の光で消滅するシーンが自然と頭に浮かびました。
もちろん『ゲド戦記』の方が時系列的には先なのですが、描写としての印象はどこか既視感があり、感情的な驚きや新鮮さを得ることはできませんでした。
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— PR TIMESエンタメ (@PRTIMES_ETM) May 2, 2025
こうした印象を持つ中で改めて思うのは、「良い映画とは何か?」という問いです。
映画というのは、多くの人々に向けて発信される芸術であり、娯楽であり、思想でもあります。
近年では「重厚なテーマを扱えば高尚」とする風潮も一部には見られますが、それが必ずしも観客の心を打つとは限りません。
逆に、笑いを交えた軽快な作品が深い感動を与えることもあります。
要は、重さと軽さ、深さとわかりやすさ、そのバランスこそが映画の“伝わり方”を左右するのではないでしょうか。
『ゲド戦記』に関して言えば、そのバランスが大きく偏っていたように感じます。
真面目で、メッセージ性があり、テーマも深い。
しかしながら、それを伝えるための“設計”が、観る者の共感を置き去りにしてしまっていたように思えるのです。
結論として、本作は「感想を言うこと自体が難しい」作品です。
面白いとも言えず、つまらないと一蹴するにも語るべき要素は確かにある。
しかし、観終わって心に何かが残ったかと問われれば、少し首をかしげてしまうようなそんな不思議な余韻を残す作品でした。